どう見られてるかをどう見るか?

今日の夕暮れは全ての景色が薄ピンクに染まるくらいに鮮烈でした。

さて
今日は(自分が人にどう見られてるんだろうか?)という想いについて。
わたしには、ほぼもうこういう想いで悩むことはないですが、
その構造についてちょっとわたしが考えてることを書いておきます。

まず、その人からの(人)は誰なのか?
身近な人なのか?
一般的に見てということなのか?

その範囲を決める判断基準は全て自分にあるのだということ。

そしてどの(位置)に自分を置いて考えているのかということが大切です。

人(例えば知人)と自分がどの位置関係にあって、どのくらい距離で見られているか?という前提で気になっているのか?距離だけじゃなく相手との高低差(見ないようにしてきた優劣)も含めて。

よーくそうやってネチネチ(笑)頭を使って考えてると、

「見られて」いた側から
「見ている」側に移行している自分が現れてきます。
これが客観性だと思うのです。単純だけど。

どう見られているか?の延長は
自分で自分のことをどう見ているか?
になると思うのです。


その合間に他人が存在しているだけ。


だから、人からどう見られているか気になり過ぎる人ほど、自分のことを見ていない気がします。見たくないから外側が気になる。

自信がないです、というのも、
何が出来て、何が出来ないのか?を自分で知らないと出てくる不安だと思うのです。

最近、セッション中にクライアントさんが何気なく言った「囚われている」という言葉を聞いて、とても違和感を覚えました。

囚われるという言葉自体に、
スピリチュアルな手垢がつきまくってるというか、
ブロックとか腑に落ちるとかもそう。
わたしも使っちゃう時もありますので、使うなってことじゃなく、
ひたすらに古いなあ!って思っちゃうんですよね、その響きに。

ほんとうに囚われているんですか?

かつてそう言われた(わたしが言ったのかもしれない可能性もありつつ)
としても、

今はその地点にもう自分は居ない。

ということが多いです。
自由になっていきたいのなら、
囚われてるという出発点を変えたほうが良いと思うのです。

例えば
囚われてる→自由になる
だと反対のエネルギーを発しているところから出発してるし
あまりにも左側(現在だと認識してしまってる部分)のウエイトが重くて、挫けそうな印象ですけど、

(過去)自由になる前↔︎自由になった後(未来)
としてみると、

今の自分が↔︎の手前かちょっと先にいるのか?なんて日々違うし、
自由になった後だと、もう左側のことは忘れていくので思い出せないレベルになってきたところで、この移行は完了します。↔︎も外れ、

自由になった後
だけ残ります。

最近の個人セッションでは、
この辺のこと(考え方を変えるのではなくて、新情報をアップデートする感じ)もお伝えしてヒーリングも行なっていきます。
これまでもそうだったけど、
そこからどうするのか?は自分自身にお任せします。

話はちょっと変わり、
最近のわたし自身に起きた変化について。

これまで20年くらいずっと良いと思って好きだった、どちらかというとファンだったともいえる人の考えや書くことに違和感を覚えた自分が居て、
その影響下に居た自分から
すでに今の地点が違った!ということに気づいてしまったから。

当たり前ですが、こっちの方がすごいとかじゃなく。

今までどこかうっすら指針にしていたような存在を失った気分でしばらく認めたくない気持ちにもなったけど、

人は変化するものなんだなあと、つくづく思う出来事でした。

人って気づかないうちにマイナーチェンジを繰り返して、それがいつのまにか大きな変化に繋がっていたりします。案外、気づいてないのは自分自身だったりも。

生きることは止まれないことで
どうしたって進んでいくから。

留めておくほうが難しい。


惑星maroom

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