そのソースはどこからのもの?
ブルドッグのほうのソース(sauce)ではなく、源のほうのソース(source)について。
先日、とある神社に参拝したところ散策中に奥のほうに赤い鳥居の稲荷神社があるのを見つけました。同時にそこへ到着した若人カップルがしきりに、ここ行く?どうする?と階段に連なる鳥居の上を覗きながら「けっこう登るのかなあ?」と言って入るのを躊躇してるのを脇目に見ながら、なんとなく気になったので入ってみることにしました。
そんなに登らないうちに境内まで出て、山の崖側にいくつか社があったのでご挨拶して、向かい側の東屋風になっていたところで座って町の眺めを見たりして一休みしていました。
その間、わたしのほかには誰も参拝客は来ず、静かな空間でひとりの時間を過ごせました。
20分くらいそこで過ごして、また鳥居をくぐり階段を降りて帰りました。
ちょっと暗い感じのところでしたが、何故かワクワクするエネルギーがあり、きらびやかでも気持ちが良い!とわかりやすいパワースポットでもありませんでしたが、個人的には宇宙度が高いところだったなあ〜〜と感じました。
ですが、
帰宅して気になってその神社を検索したところ心霊スポットとしての多くの記事が出てきて、ちょっとびっくりしました(笑)
神社には「猿が出るのでお供えものは持ち帰ってください」とは書いてあったけど!
その心霊スポットという情報をみた途端に、手に力が入らなくなり、体が痛くなりました。ヤバイ!久しぶりにやっちまった!と何か連れて来てしまった体感がざわざわと起こりました。
あのバス停で目があった白髪のおばあさん、そういえばわたし目があった時にちょっとびっくりしたような顔をした気がしたけど、何か見えたのかな?とか、いろいろぐるぐる駆け巡って、、、。
とりあえず塩風呂に入り、浄化のためのあれやこれやをしようと考えてたところで、
「そうだ!ハンバーグ作ろう!」
と何故か猛然と米を炊き、ハンバーグをこしらえて、もぐもぐ食べているうちに、
スーーっと我に帰ってきました。
体の痛みも消えて手にも力が戻りました。
そこでわたしは気づいたのです。
自分の内の幽霊にただ惑わされてただけだって!
だって、その情報を読む前までは全然ピンピンしてて、現地に行った時もひやっとするようなことも一切なくご機嫌で帰ってきたのに!
細かい事を言えば、神社はかなり傷みがあったけど、きちんとお掃除されていて、定期的に数は少ないかもしれないですが、どなたかが来て気を配られてる、文字通り人の「気配」がありました。けしてお化けの気配ではなく。
そこへお邪魔しますというつもりで、しばらく過ごして、気持ちよく帰ったのに、へんなソースの情報を信じてしまったバカなわたし!
わたしは心霊やネガティブな目に見えない情報の多くは、ほぼ「集団無意識」と同じソースから来ている幻想だと思っています。
心霊現象を信じないかどうか?という論点とは別にして、
それらが「ある」としたら全ての人の内から投影されたものであるということです。
怖いって思ったら電柱の影さえもお化けに見えるし、何にでも再生して見えるんだと思います。
かつて目の前で幽霊に追いかけられて怖がる人たちも見たことあるし(わたしには見えなかった)
心霊現象に悩まされる人たちも身近にいたこともあるけど、わたしにはみんな、その当人たちの精神状態が常に繊細で不安定で大変そうだなあというふうにしか見えず、幽霊を見るということ=特別な体験してる人としてほかの人たちのように奇異の目でみる気が起きなかったです。
なのに、そんな自分でさえも、
「京都 有名 心霊スポット」
みたいなワードに引っかかってしまう現代の罠!(引っかかりに行ったようなものだけど!)
さすがネットだけに、簡単に絡まるってことです。(そのネットではない)
いや、この神社は神社の名前だけで検索しても、すぐに心霊スポットと出てくるのでほんとに有名みたいでしたけど(笑)
そういう意味でも
パワーが集まるスポットだったんですよね。良くも悪くも。
パワースポットには大まかに言って
2つのタイプがあると思います。
太古からそこにただ存在するもの。
それにそこに住まう人が気づき守っている場。
もう一つは、
理由があり人為的に作ってきた場です。
神社仏閣はこの二つめにあたると思うので、神が祀られているとしても、人由来のチカラが働きやすいのだと思います。
だから(ご利益がある)のです。
現世御利益ですね。
詳しくは突っ込まないでくださいね。
あくまでわたしが捉えてるセカイのことですので、気になる方は自分で深めてください。
一つ目のパワースポットについては、
ボルテックスのようになって、エネルギーが吹き出しているような場がパワースポットと呼ばれる所以だと思うのですが、たぶん地球上にはそういう場が本当はたくさんあったのだろうと思います。人間がそこではうまく暮らせない状態にエネルギーが落ちてしまったので、生活する場としては強すぎるそういった元パワースポットを破壊してエネルギーを下げて自分たちに合わせていったことも、目線を変えれば“自然な”成り行きだったのだろうと思います。
育った環境によって違うかもしれませんが、多くの人が自然な風景として見える山里の環境だって、森林は人が管理して育てた山だし、田畑だってそうです。田んぼの水だって山から流れてくるように人が引いたものです。
人が住める環境は、そうやって人によってエネルギーがマイルドになってるから、ちょうどよく心地よく感じられるのだと思います。
例えがちょっと荒いかもですが、
綺麗すぎる水には魚が住めないと言われますが、人間もそうだと思うのです。
以前に人が住まなくなって久しい無人島に行ったことがあるのですが、小さな島なので、もちろんぐるっと海に囲まれてるということもあって、かなりパワフルな場だったのですが、それ以上に人が居ない、住んでない環境というのは、こんなふうにエネルギーが濃いんだ!と思いました。
ここだけでなく、国内しか行ったことないですが、各所でエネルギーが濃い=人の匂いがしないという発見をしてきました。そういう場はほんとに長くはよそ者は特にいられません。
別にそこの神々が拒否するわけではなく(そもそもそんな器の小さい存在が神とは思えないし)
単にエネルギーが強すぎてカラダが追いつかないので、そこに入れる人と入れない、入りづらい人がいるだけのことだと思うのです。
ものすごーく、回りくどいけど、
始めに書いた神社はそういう場でした。人の気配(匂い)はするけど、
一部の人が守ってる感じで、とても謙虚な感じでした。
そしてそのもっと向こう側に、大きな宇宙的存在を感じたのでした。
その存在が何やら喜んでくださったのも感じてしばらく交流していたのです。
ただこれは現在のわたしが感知できる範囲でのことですので、正しいかどうかはわからないです。(なので神社名は書きません)
どこへ行ったとしても
そのソース(源)に繋がるのは
そのときのわたし、です。
それがどんな情報を持っていたとしても、惑わされずに、いつでも、
そのソースが
自分自身のどこからのものなのか?
を感じ続けないと、親切なふりして漂うあらゆる情報集合無意識にすぐに足元をすくわれます。
何かに利用されているのにそれに気づかずその対価で気まぐれに与えられるご利益と、
大いなるもの(わたしはそれを宇宙と呼んでますが)に委ねつつ、
そこと繋がる内なる自分の声に常に耳を澄まして掴んでいくものと、
どちらが良いかはもう趣味の問題くらいなことなので、ご自由にどうぞって感じだと思うのですが、
多方面で気を抜けないなあという個人的な出来事だったので書いてみました。
今日は以上です!
気が済んだので急におしまい!(笑)
長々と読んでくださりありがとうございます!
写真は京都にバナナが!?とびっくりして撮った写真です。有名なカフェらしいです。
根っこがアスファルトの下でどうなってるのかが気になりました。
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