友達、人付き合い、本音について。

昨日も友達と話していて思ったことがあって、それとつながることを書いてみます。

わたしは今、親しく思えてる友達は全員が「変わってる人たち」だと思ってます。だからこんなわたしの話が通じるし、付き合えてるんです(笑)
変わってる、というのは見た目や仕事や社会的ポジションや趣味嗜好や、そんなわかりやすいことを指しているのではなく、
その人の「感じ方や考え方」のことです。物事に対しての捉え方や反応が変わってる、一般とはちょっと(大きく?)ズレている。

わたしも普通だと自分では思ってた時期が長かったし、普通でありたいのに、みんなが普通だと思ったり言ってることがそう思えなかったり。
でも、幸い、当時からそういうわたしでも「ちょっと変な感性を持つ人」として周りの人が受け入れてくれていたので、ある意味助かってましたが、

心の奥底では
“普通なことを普通にできない自分”
をずっと責め続けて、自分や誰かやなにかが悪いのだと被害妄想や被害者意識が強くて、苦しい時も多かったです。
あと誰と比べてたんだろう?って。

今はわかるけど、

誰でもなく、集合的無意識に単純に繋がってしまっていただけなんだと思います。
そんなことを!って今だと言われちゃうような、女だからこう!とか、男だからこう!とか、子供だから、大人だからという「普通はこうだよね?」というずーーーっと奥底では存在し続ける、大勢(日本人、もっと大きく言えば人類)の無意識のことです。
例えば、
「女だから結婚して子供を産むのが幸せな人生よ!」
なんて誰かに面と向かってもう言う人も少なくなってるし、
言ってる人がもしいたら、いまだにそんなことを言うのか!って攻撃されたり、批判の対象になると思います。

でも考えてみると、いまだにその意識は
「攻撃される、批判される」レベルだということなのです。

もしその概念そのものが、みんなの意識から消失できたら?

攻撃もされず、批判もされず、
全く意味がわからないというか、聞いても母国語じゃあないかな?
くらいにスルーされると思うんです。
無視ではなく、
もう「存在しなくなるくらいに見えなくなる」ということです。

これはすごくプライベートな例えですが、わたし自身は「女は子供を産まなければならない」という集合的無意識とは昔から繋がっていない(その考え方が自分の中で薄かった)おかげか、子供を産まなくても、両親にも一度も「孫の顔が見たい」とか、結婚して20年くらい経ちますが、これまで一度も言われてませんし、面と向かって誰かにそのことで責められたりしたこともないです。だから子供を産まなかった、という話じゃあないですよ、念のため。結婚した女性が一度くらいは親やお節介オババに言われて傷ついた経験がわたしにはないんですということ。

なのでわたしの世界では、
女が(女だけが)子供を産むことが不思議でしょうがないレベルに今はなってます(笑)男が産んでもいいじゃあないかな?くらいです。あと年齢制限とかも不思議です(笑)いいじゃあないか、高齢出産でも!

これらはキケンな思想でしょうか?

そんなことないと思うのです、
絶対数は少ないと思うけど同じようなことを奥底ではここまでじゃなくとも感じてる人もいるんじゃないかなって。
特にこんな辺境の地のブログを読んでる人の中には(笑)

わたしの考え方に賛同が欲しいとか、理解し合える仲間が欲しいってことで、ここまで書いてる訳じゃないです。そんな簡単に普通はわかりっこないし、いいんですわたしは変人でも。

どっこいそれでも生きているから!

それで友達という存在についてです!
やっと本題です。
人付き合いで悩んでる人の(友達やセッションを受けに来てくださってる方も含め)悩みで共通してるのが、

「本音で話せる人がいない」
ということです。

周りのママ友とかも話が合わないし、
理解されないことも多いです、とか。

はっきり言っちゃうと、

その「今の現実」が自分の音色、本音なんじゃないですか?


本音で話せる人なんている訳ない
というのが自分の奏でてる音色なんじゃないですか?
大事なことなのでアンダーライン引いちゃったw

あと本音で話せる友達が欲しいということと、
薄い関係、一生付き合うことでもなさそうな周辺の人と円満な雰囲気で付き合えることは違いますから!

ここを混同したりすると、人付き合いが更に難しくなります。

いいじゃあないか!
薄い関係の人には適当に合わせとけば!
そうなんですねー♫って聞いてるふりしつつ話半分で聞けば〜。
そういうことを聴くと、罪悪感出てくる人も多いと思います。
その罪悪感の元があなたの繋がってる集合的無意識だとしたら?自分のせいでも、どうしても気の合わないママ友のせいでもないですよ!

人類の無意識のせいです!
っていうことは、

自分のせいですヨ!

あなたも人類な訳ですから。

そういう悩みを持って目の前に現れてる人がいる時点で、
わたしも、まだそういった「人付き合いに対しての」集合的無意識とどこかが繋がってるということです。
なので、わたしもわたしのせいじゃないけど、わたしのせいでもあるんです。
直接、物質的な関係はないし、わたしがその人の人付き合いを直接的に邪魔したりしてないっていう部分では、わたしのせいではないですよね?(ここまで書いてるわたしって親切だなあって自分で言っとく)

そして本音なんてのは、
今思いつく「言葉」で簡単にそこらじゅうの人に話せるほどに単純じゃないってこともあるんじゃないかなって考えています。

だから、芸術や音楽で人類は表現してきたんじゃないでしょうか?その音色を。現代では小説や映画などのフィクションの世界などを通して。

それらを見たり聴いたりした際に琴線に触れるということは、
自分の音色がそこでそれらの持つ音色と共に宇宙に奏でられてるということじゃないでしょうか?
その時の感覚は簡単に語りつくせないから琴線に「触れた」としか言えないんじゃないでしょうか?

わたしはあまり人と喋れない子供の頃の自分の感性をいまだに信頼しているし、その自由さを覚えています。
それは友達なんか1人もいない時です。
自分の音色は地球上で聴けるのは自分だけって思って自作の歌を空に向けて歌ってました。

でもいつ頃からかそれを忘れてしまって、思い出した途端に、これまでムダに無意識に漏らして来ていた自分の音色が汚くて酷いものだった!と反省したし、

自分のそのままの音色で話せる人なんて
この世にはいないって気づいたんです。

居ない訳だから、居なくても仕方ないし、それでいいや!と。


そうしたら、本音に近いことをそのまま言葉に出来るスキルが身について来たし、それを言える場も出現して来たし、聞いてくれる友人も今は少ないながらもできました。少ないけどみんな秀逸な宇宙センスの持ち主です。
それが「変わってる人たち」なのです。

人付き合いが難しいならば、その薄い付き合いに見合うエネルギーで
適当に合わせて、それでも無理だというならどう思われてもいい覚悟でフェードアウトする。
本音で話したいなら、話せる友達ができるまで期待せずに自分だけでその音色を聴く。
自然や音楽や映画や小説などを通して、自分では言葉にできない自分だけの音色を響かせてみてください♫

そして何かに気づいたとしても別に
シェアなんていらないヨ!

自分だけでしばらく楽しめばいいです。
そしたら、自然に誰にも言ってないのに、自分で感じてるそのままを伝えてくれるような人に出会えたり、自分ではうまく言えない本音につながるような想いや考えをピンポイントに代弁というか話したり表現してる人に直接は会えなくても出会えます。いつかはわからないけど。
その人と友達になれれば最高かもしれないけど、人格や趣味は自分と異なる人がほとんどだから、実際に変に期待しちゃって会うよりも、その人がより色濃く繋がっている集合無意識につながれた!ってことのほうが大事なんじゃないですか?

そして、
このブログもそうあったら、
って期待はしてないけど、ちょっぴり思ってますほんのちょっぴりね!

友達にはならなくてもいいけど(笑)

惑星maroom

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